忙しい人のための特撮怪獣映画概論その③【誰得】
忙しい人のための特撮怪獣映画概論その③【誰得】
忙しい人のための特撮怪獣映画概論その③【誰得】
さて、概論の最後は特撮怪獣映画の【ロマン】について。といっても、ロマン性なんて概念は人それぞれであるべきで、それを一般化しようなんてことは思っていない。ので、ここでいうロマンというのは、自分にとって、怪獣映画の魅力の根幹をなす要素は何なのか、という、いわば自分が特撮怪獣映画に求める一番重要なテーマ、といって差し支えない。勿論、特撮技術が優れているとか、ストーリーが如何にリアリティを伴っているかとか、今まで論じてきたファクターもとても重要なのだが、幼少時代からずっと自分が怪獣映画に魅力を感じてきた由来は根本的にはそこら辺にはない。自分にとって一番魅力に感じることは、

「【怪獣】という巨大な生き物が【生きている】」

ということである。

勿論今はある程度精神的に成長したから、怪獣という存在は現実にはおらず、人間の妄想が生んだもので、画面に映っているモノの中にはちゃんと人が入っていて動かしているんだというのは分かっているけれど、リアルタイムで怪獣映画を見ていた頃はそんなことは思いもしなかった。思い起こせば懐かしいが、ウルトラマンパワードでレッドキング♀が崖から転落死した描写を見てマジ泣きしカーチャソに窘められていた時分である。然れば、自分にとって怪獣映画が最も魅力的に映るのは、「未知の、かつ圧倒的なスペックを兼ね備えた巨大生物が、それでも確固たるひとつの生命体として、それ自身の生存本能・生態に従い生きている」ように描写されることである。架空の、そして超常の存在である怪獣にも、現実的な「生命の本質」みたいなものがみえる、言い換えれば自分と同じ世界に生きているようにみえる、そういう風にみえるよう、大の大人が一所懸命汗水流して作った怪獣映画が自分は大好きである。

先に挙げた作品群の中にもそういう意味での「ロマン」を兼ね備えた作品は多くあるものの、ここではそれらと比べても特に自分が強く「怪獣の生物性」というものに感銘を受けた映画を紹介したいと思う。


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【ロマン】

「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン(1966)」
科​学​の​力​で​は​も​う​、​ど​う​に​も​な​ら​ん​
≪基本データ≫
1966(昭和41)年4月17日 上映(同時上映:大魔神(1966))
配給:大映
製作:永田雅一
脚本:高橋二三
音楽:木下忠司
特撮監督:湯浅憲明
監督:田中重雄

≪ストーリー≫
半年前に打ち上げられたZプランロケットが宇宙空間で隕石に衝突し、中に閉じ込められていたガメラが脱出。ガメラは地球へと舞い戻り、エネルギーを求めて黒部ダムを破壊した後、噴火した火山に潜伏した。

一方、大阪で航空士のライセンスを得たばかりの平田圭介は独立して観光飛行機会社を設立するための元手を集めるために、勤めていた会社を辞めて兄・一郎の計画へと参加した。兄は戦時中にニューギニア奥地の洞窟で発見した巨大なオパールを隠しており、片脚の不自由な彼に代わって仲間の小野寺、川尻と共に「戦死した友人の遺骨収集」を名目にした密輸計画が実行されることになる。

現地に到着した3人は、洞窟へと続くジャングル手前の集落で村人達と暮らしている日本人医師の松下博士から、その洞窟が「虹の谷」と呼ばれる禁忌の魔境と聞かされ、諌められるものの、欲に目のくらんだ一行は強引に突破していく。深いジャングルを進む途中、小野寺が底なし沼に落ちるものの、3人は何とか洞窟へとたどり着き、ついにオパールを発見した。そのとき、オパールを前に狂喜乱舞する川尻の脚に毒サソリが上っていたが、小野寺はわざとこれを教えず、川尻がサソリに刺されて悶え死ぬのを見殺しにした。これを機に、強欲な本性を現した小野寺は川尻の死に嘆く圭介ごと洞窟を爆破、1人オパールを携え、外国航路の日本船「あわじ丸」で日本へと向かう。

日本への途上、マラリアと水虫を患った小野寺は、あわじ丸の船医、佐藤の奨めによって赤外線による治療を受ける。しかし、神戸港へ着いた夜に船員から麻雀に誘われ、赤外線治療機の電源を切り忘れてしまう。小野寺がベッドの上に隠していたオパールは赤外線を浴びてひび割れ、やがて中から1匹のトカゲのような生物が生まれた。これはオパールではなく、伝説の怪獣「バルゴン」の卵だったのだ。

同じ頃、中国人宝石ブローカーとオパールの商談のため神戸港で密会していた一郎は、突然炎上沈没したあわじ丸を見て弟の圭介の安否を気遣う。一郎に対し、小野寺はニューギニアで圭介が谷に落ちたと嘘をつき、さらには目的のオパールがあわじ丸と共に沈んでしまったと説明する。その時、赤外線によって巨大化したバルゴンが、海面に紫色の体液を噴き上がらせながら神戸港に上陸。港を破壊し、大阪へと東進していった。

大阪へとやってきたバルゴンは、冷凍液を使って数々の名所や建築物を凍らせ、関西方面防衛隊を全滅させる。人類は鈴鹿のミサイル基地から、遠方からの攻撃を試みるものの、動物的本能で危険を察したバルゴンはプリズム状の背中のトゲから「悪魔の虹」(殺人虹光線)を放って周囲の人間を焼き尽した。しかし、その光線のもつエネルギーに誘われ、ガメラがバルゴンの元へと飛来。二大怪獣による「大怪獣決闘」が繰り広げられることになる。

≪総論・見どころ≫
怪獣同士の殺し合い。「大怪獣決闘」と謳うタイトルが冠されたこの作品では、ガメラとバルゴンという二大怪獣の血生臭い戦いを見ることが出来る。ガメラはバルゴンの持つエネルギーに惹かれそれを奪うために、人間の強欲によってニューギニアから日本に持ち込まれた卵から孵化したバルゴンは人間やガメラの攻撃から自身を守るために、それぞれがそれぞれの生存本能に従い衝突するのである。その闘いの中身も生々しく生物的で、火炎を吐いたり冷凍液や怪光線を用いるものの、両者とも殆どが生身でのどつきあいをし、巨大な体躯で相手に突撃したり、相手の急所に噛み付いたり、鋭利な爪で相手の眼を抉ったりする。流血表現は他の怪獣映画と比べても強めだろう。このような怪獣同士のリアルで生物的な争いを描いた点が、ガメラ対バルゴンという映画の魅力である。登場する怪獣が主に四足歩行でズルズルと移動するのも拘りがある。ちなみに、昭和ガメラと言えば子供の味方・ヒーローといった印象が強いが、この作品でのガメラにはそのような英雄的なキャラクター性は皆無であり、いうならば只の亀の化物である。

怪獣同士の戦闘のみならず、人間VS怪獣(バルゴン)という構図の中でも、バルゴンがダイアモンドに惹かれる・雨が苦手といった点に着目した作戦が展開されるなど、怪獣の持つ生物性を重視した作りとなっている(少々論理性というか話の展開の仕方に無理がある点はあるが)。他にも、バルゴンの持つ冷凍液の脅威を避けるために遠距離攻撃に徹する人間の作戦が、事前に脅威を察知したバルゴンの先制攻撃によって台無しになったり、人間側の作戦によって自傷を負ってしまったバルゴンが、その原因となった行動を決して二度とは行なわなかったり、後年によく見られるような、人間の兵器などものともしないインフレ気味な身体スペックに任せて暴れまわるような怪獣の表現はこの映画では徹底して避けられている。こういった描写の数々によって、バルゴンという怪獣を一個の生命体として生々しく、しかし非常に魅力的に表現されているといえよう。

しかし、それでも怪獣は超常の存在。人間の科学力ではバルゴンの脅威に対処しきれず、唯一の切り札も(人間側の悪役によって)失い、自衛隊を含めた登場人物たちが限界と絶望を感じ始める中、ガメラとバルゴンの、生物としての純粋な殺し合いが始まるのである。このような形でクライマックスを迎える怪獣映画は珍しい。

また、この作品では欲望渦巻く薄汚いダークなヒューマンドラマが展開されるのも特徴である。勧善懲悪の一面もあるものの、それらはあくまで、人間にのみ適用されるものである。怪獣はそれそのものの本質に従って生きているだけで、善も悪もない。怪獣の生物性を描く際にはこの点をしっかり押さえることも必要不可欠であり、そういった観点からもガメラ対バルゴンは一見の価値ありの作品である。

以下見どころ
・ガメラによる黒部ダム襲撃
決壊するダムをミニチュアセットで表現した技術は素晴らしいの一言
・氷点下の大阪城
全てが凍りついた中で初戦を迎えるガメラとバルゴン。この二体以外には全てが静止した空間の中で、最初の殺し合いが始まる。


「モスラ対ゴジラ(1964)」
「あの黄色い粉は何ですか?」「モスラの最後の武器です・・・」​
≪基本データ≫
1964(昭和39)年4月29日 上映(同時上映:蟻地獄作戦)
配給:東宝
観客動員数:720万人
製作:田中友幸
脚本:関沢新一
音楽:伊福部昭
特技監督:円谷英二
監督:本多猪四郎

≪ストーリー≫
巨大台風8号が日本を通過した翌日、毎朝新聞の記者である酒井と助手の純子は高潮の被害を受けた倉田浜干拓地で鱗のような物体を見つける。一方、静之浦の海岸には巨大な卵が漂着。ハッピー興業社の熊山は漁民から卵を買い取り、静之浦の海岸に孵化施設を兼ねた「静之浦ハッピーセンター」の建設を始めた。

巨大な卵を調査した三浦博士と酒井らだったが、彼らの目の前に小美人が現れる。彼女達によると、巨大な卵はインファント島に唯一残っていたモスラの卵で、卵を失った島の人々は悲しんでいるという。酒井たちは卵を返還するよう抗議活動を始めたが、熊山は応じないどころか、小美人まで売るように言い放つ始末。実は熊山の裏には大興業師・虎畑二郎がついており、抗議活動は頓挫してしまう。

そんな折、酒井と純子は三浦に呼び出され、放射能除去を受ける。実は倉田浜で見つけた物体から放射能が検出されたのだ。調査のため倉田浜に駆け付けた酒井たちの目の前に干拓地からゴジラが出現。四日市のコンビナート地帯と名古屋市を蹂躙した。酒井たちはインファント島に飛び、原住民達にモスラを派遣するよう懇願するが、「悪魔の火」と呼ぶ核実験によって島を荒らされ、モスラの卵の返還をも拒まれた原住民達と小美人は拒否。しかし、酒井たちの説得を聞き入れたモスラは、寿命が近づく身でありながら、日本へ向かった。

ゴジラは自衛隊の高圧電流攻撃にもひるまず、トラブルから熊山を射殺してしまった虎畑が滞在するホテルを破し、虎畑もその際に逃げ遅れて命を落とす。ゴジラがモスラの卵がある静之浦に迫った時、モスラが飛来。二大怪獣が激突する。

≪総論・見どころ≫
モスラ対ゴジラは、1961年に公開された映画「モスラ」の続編にあたる作品であり、また、1962年公開の「キングコング対ゴジラ」以降、「メジャーどころの怪獣対決路線」という企画が東宝製作会社の中で明確に打ち出された頃の、いわば怪獣映画の黄金時代における一つの頂点を極めた作品と言ってもいいだろう。作品内で死闘を繰り広げるゴジラとモスラは、いずれも以後の東宝特撮映画においてエース級の目覚ましい活躍を披露する名怪獣であるが、この「モスラ対ゴジラ」以降の両者のキャラクター性には大きな違いが生じることとなる。巨大な蛾の怪獣であるモスラは、「地球の守護神」「正義の味方」「人間の子供達を救うために悪役怪獣と戦うヒーロー」という、いわゆる分かりやすい「善の怪獣」として映されるのに対し、ゴジラは善も悪も超えた超常的な存在として描かれることが多い。そんな、明確に異なるキャラクター付を今後されていく両怪獣であるが、「モスラ対ゴジラ」においてはそういった「味付け」は薄く、むしろ両者ともに原始的・生物的な側面が比較的強く押し出されているのが特徴的である。

まずゴジラ。モスラ対ゴジラにおけるゴジラ(通称モスゴジ)は、他のゴジラ映画には珍しく「悪役」として描かれているとよく言われるが、別段そんなことはない。モスゴジの劇中の行動は決して悪性に従ったものではなく、ゴジラ1954で現れた初代ゴジラと同じく、自身の動物的本能(というより好奇心?)に従った結果である。倉田浜干拓地より出現したゴジラであるが、この個体が「ゴジラの逆襲」「キングコング対ゴジラ」のものと同一個体であったとしても、恐らく長い間眠りについていたのであろうと思われる(少なくとも人間側が厳重なゴジラ対策を常時展開する必要がなくなるほどには)。「起き抜け」の状態のゴジラは激しく暴れまわることもせず、周辺の散策でもするように四日市コンビナートから名古屋市内へと進撃(?)。途中テレビ塔に尻尾が引っ掛かってジタバタしたり名古屋城の堀に足を取られてずっこけたりと、コミカルな一面が見られるが、これもこのゴジラが永い眠りから醒めた後で寝ぼけ眼であったせいではないかと思われる。そして、静之浦へと辿りついたゴジラは自身の体長とさほど変わらないほどの大きさの卵を発見。興味を持って近づき、柵(保護施設)が邪魔だったのでぶっ壊していると巨大な蛾が飛来、いきなり突風で吹っ飛ばされたかと思うと尻尾を掴まれ引きずり倒され、おまけに毒鱗粉で攻撃されるという始末である(ちなみにこの毒鱗粉、モスラの最後の武器というだけあってかなり強力だったようで、鱗粉を浴びたゴジラは後遺症で次作「三大怪獣地球最大の決戦」では放射熱線が吐けなくなっている)。これではたまったものではないとゴジラも反撃、結果として親モスラを焼き殺してしまうことになるのだが、これら一連の破壊行動の根底に「ゴジラの悪意」たるものがあるわけではない。結局のところ、ゴジラにとっては目覚ましの散歩を邪魔するウザいやつ(蛾とか自衛隊の高圧電流攻撃とか)の露払いをした程度の認識でしかないだろう。この悠々自適とも取れる「余裕」はゴジラの持つ超常的な身体スペックに起因するものであるが、強大な力をもつ生物は屈するものが無い故に悠然と闊歩するものである。そういった意味で、モスラ対ゴジラにおけるモスゴジは、他の(特にこれ以前の昭和初期ゴジラ作品)映画で強調されるゴジラの凶暴性ではなく、自身の強大さ故に自由気ままに振る舞うゴジラという生物を変な味付けを加えずに素直に表現した結果であるともいえ、非常に興味深い。

それに対するモスラであるが、こちらにはゴジラとは打って変わり、「必死」という言葉がよく似合う。ゴジラ対モスラでは成虫モスラ(親モスラ)と幼虫モスラ(子モスラ)が二度にわたってゴジラと戦うことになるが、どちらの場合も、モスラは「人間を救うため」というある意味チープな理由で戦うのではなく、自身の生物としての本能に従い、外敵であるゴジラと死闘を繰り広げることになったのだと自分は感じた。確かに劇中にて主人公の新聞記者たちがモスラの故郷であるインファント島に乗り込み、原住民・小美人たちと共にゴジラと戦うようモスラを説得、人間側の願いを聞き入れモスラがゴジラ迎撃に飛び立つというシーンがあるが、結局のところ、モスラ(ここでは親モスラ)は、自分の卵が危険に晒される可能性があったから、残り少ない命を賭してゴジラとの戦いに向かったのではないだろうか。上述したように善の怪獣として描かれることの多いモスラであるが、モスラ対ゴジラにおいては、そのような聖人菩薩のような善性からではなく、自身の子孫を守るためという、一個の生命体としての生存本能に従った行動を取ったように思えてならない。怪獣とはいえ一顧の生物、自身の命を賭して戦うのであるとすれば、それは自分や自分の子の生命を守るためであるべきであろう。そういった生物的な解釈がすんなり収まるといった点で、自分にとってモスラ対ゴジラという作品におけるモスラの描写は魅力的に見える。ちなみに、親モスラの死後孵化した子モスラが引き続きゴジラとの戦いに赴くことになるが、これもまた、人間を救うためというよりかはゴジラによって殺されてしまった親の敵を討つ、という理由に依るものが大きいだろう。敵討ちなんていうと非常に人間臭い概念であるが、人語を解し、インファント島の原住民と長い間共存できるほどに高い知能レベルを持つモスラならば、そのような行動を取ってもおかしくはないのではないとも思う。

以上のように、モスラ対ゴジラという映画では、自身のもつ力の強大さ故に何者も恐れず悠然と振る舞う外敵=ゴジラと、子孫繁栄のために命を賭して抗う生命群=モスラという、異なる生物の在り方が二大怪獣によって表現されており、非常に興味深い。

なお、余談になってしまうが、モスラ対ゴジラは「オプチカルプリンターの導入により実写と特撮シーンの合成レベルが飛躍的に上がった」最初のゴジラ作品である。名古屋市内で暴れるゴジラなど、実写合成におけるオプチカルプリンターの功績は随所に見て取れるので、そういった点からもこの作品を鑑賞してみれば面白いと思う。

以下見どころ
・どう見ても腹巻巻いた日本人のオッサンにしか見えないインファント島民
この作品の笑いどころの一つ。明らかに日本語話してるし。もうちょっとマシな演出は出来んかったのかとも思うが、予算の限られた怪獣映画でそこまで細かいところまではカバーできなかったんだろう。インファント島内部のジオラマセットもバラエティ番組レベルのお粗末な作りであるが、そこはほら予算が。。。
・静之浦、成虫モスラ対ゴジラの死闘
上述したオプチカルプリンタによる実写合成技術の向上を見て感じることが出来る最も印象的なシーンが倉野浜干拓地でのゴジラ出現と、静之浦の死闘である。特撮映画においては、実写映像の中に違和感なく特撮映像を混ぜ合わせることで、あたかも怪獣が現実の光景に出現したかのように効果的に表現することができる。該当シーンにおける、砂丘で戦う二大怪獣とそれを遠巻きに見守る人間の対比は、以降の特撮映画の実写合成シーンと比べても遜色ない仕上がりである。成虫モスラの操演も生物的で生き生きとしており素晴らしい。羽ばたきごとに極彩色の羽根の先端まで弛むのがとてもいい。


「ゴジラVSキングギドラ(1991)」
「前よりも、ずっと大きい・・・」
≪基本データ≫
平成3年(1991)12月14日公開
配給:東宝
観客動員数:270万人
製作:田中友幸
音楽:伊福部昭
特技監督:川北紘一
脚本・監督:大森一樹
協力
[防衛庁]
長官官房広報課

{陸上自衛隊}
陸上幕僚監部
東部方面航空隊
富士学校
富士教導団
美幌駐屯地

{海上自衛隊}
海上幕僚監部
護衛艦「ひえい」
特務艦「あきづき」
第124航空隊

{航空自衛隊}
航空幕僚監部

≪ストーリー≫
1992年7月、突如東京上空に巨大なUFOが飛来した。後日、富士山麓に着陸したUFOからメッセージが届き、中からウィルソン、グレンチコ、エミーと名乗る3人の人物が姿を現す。彼らの言い分によると、自分達は23世紀の地球連邦機関の使者であり、21世紀に復活したゴジラによって日本が壊滅的打撃を被る前に、ゴジラを抹殺する目的でやって来たのだという。

彼らはノンフィクションライターである寺沢健一郎が著書『ゴジラ誕生』の中で記した、「ラゴス島に生息していた恐竜が、1954年にビキニ環礁で行われた核実験によりゴジラへと変異した」という仮説に基づき、そこから恐竜を別の場所に移動させてゴジラを誕生させないようにするという計画を立てた。

未来人のエミー、アンドロイドのM11と共に寺沢、三枝未希、大学教授の真崎らも1944年のマーシャル諸島・ラゴス島へと赴き、戦時中の日本軍ラゴス島守備隊をアメリカ軍から救った1頭の恐竜(ゴジラザウルス)を目撃する。恐竜は未来人達の手によって、ベーリング海へと転送される。これにより、ゴジラは歴史から完全に抹殺されたものと思われた。

しかし、寺沢達が1992年に戻ってくると、ゴジラの消滅と同時に太平洋上にキングギドラが出現していた。その裏には、後に地球一の超大国へと肥大化し、世界経済を一手に支配することとなる日本の国力を消耗させんとする、未来人の策略があった。

未来人にコントロールされたギドラは福岡は壊滅させ、日本全土を次々に蹂躙していく。この危機に対し、かつてラゴス島でゴジラザウルスに救われた帝洋グループ総帥・新堂靖明は、ゴジラを復活させるべく核魚雷を搭載した原子力潜水艦「むさし2号」を、秘密裏にゴジラザウルスが転送されたベーリング海へと派遣した。しかし、すでにゴジラザウルスは先の原潜沈没事故で未回収となっていた核廃棄物の影響で怪獣化しており、さらにむさし2号の破壊によって膨大な核エネルギーを吸収した“ゴジラ”は、以前よりもはるかに強力な怪獣へと変貌していたのだった。

≪総論・見どころ≫
ゴジラVSキングギドラは、いわゆる川北紘一監督による”平成ゴジラシリーズ”の第一作にあたる作品である(前作のVSビオランテからを平成ゴジラシリーズと呼ぶ場合もある)。以前「平成ガメラシリーズはリアリティ、平成ゴジラシリーズはロマン」という言葉を関連の記事に書いたと思うが、平成ガメラシリーズが特にガメラ2に代表されるように「災害パニック映画」としてのリアリティを追求した比較的大人向けの作品であったのに対し、平成ゴジラ映画はファミリーをターゲットとしたお正月映画として、怪獣同士のド派手な戦いや巨大ロボットなどの特殊兵器の登用など、現実性よりもよりファンタジックでインパクトのあるストーリーや演出がメインとなっている。本作もそういった一連の作品群のハシリとして、またバブル絶頂の時代に作られたエンタテイメント映画として、「でかい・重い・派手」の三拍子揃った表現、および「細けぇこたぁいいんだよ!」とでもいうかのようなインパクト重視のストーリーが盛り沢山である。敵怪獣には東宝屈指の名悪役であるキングギドラを据え、高度経済成長の結果巨大化した建造物の存在感負けないよう怪獣のサイズも100m超にグレードアップ、轟音と呼ぶに相応しい音響効果や川北監督お得意の色とりどりの光線を交えたバトル・火薬たっぷりの爆発演出によって巨大怪獣のパワーが真正面からぶつかり合う様子を迫力十分に仕上げた特撮シーンに、未来人・タイムトラベルなど怪獣映画としては異色なSF要素を多量に盛り込んだストーリーなど、本作は娯楽映画としての色を前面に押し出した作品といっていいだろう。1975年の「メカゴジラの逆襲」以来、実に16年ぶりにゴジラ映画に復活した伊福部昭氏による劇中音楽も、本編の迫力に負けず劣らず、どっしりとした躍動感溢れる旋律を提供してくれる。

さてここで、先に挙げた自分にとっての怪獣映画のロマンをこの映画に見出すならば、その魅力は、「ゴジラという怪獣のルーツを初めて明確に映像化した作品である」という点にある。恐竜の生き残りが水爆実験によって巨大・凶暴化したという設定がゴジラにはあるが、ゴジラの起源となったその恐竜を「ラゴス島のゴジラザウルス」として本作品にて出演させたことで、ゴジラVSキングギドラ、ひいては平成ゴジラリーズでは、より生物学的な側面からゴジラという存在に迫ることが出来たといえよう。この点は、のちに紹介するゴジラVSメカゴジラやゴジラVSデストロイアといった作品で顕著にみられる「怪獣という生物が織り成す生命のドラマ」にも深く関わってくる要素でもある。ゴジラという一個の生命が、どのような行動理念で生きているのか、その命の在り様を効果的に描いたという観点から自分は平成ゴジラシリーズがとても好きなのであるが、本作においても、ド派手な特撮シーンやある種トンデモなストーリーの中に繊細な「怪獣ドラマ」が織り込まれており味わい深い。

本作の有名なシーンに新堂会長(元ラゴス島守備隊隊長)と現世に再び蘇ったゴジラが対面するシーンがあるが、WWⅡにて人間同士の戦争に巻き込まれ、瀕死の重傷を負いながらも自分のテリトリーを守るために戦ったゴジラザウルス、そのある意味「なれの果て」ともいえるゴジラが、過去の戦場に共にあった人間に再び相対し何を思ったのだろうか。そしてその後何故あのような行動を取ったのだろうか。ものの本によれば、ゴジラとここまで長く対面した人間はシリーズを通してこの新堂のみであり、直接的ではないにしろ「ゴジラが涙を流す」と取れる類の演出がなされたのもまた、長い歴史を誇るゴジラ映画においてはこのシーンとVSデストロイアのある場面を除いて他にない。ゴジラのような生物にはあまり人間的な情念や感情を投影したくはないのだが、そのような背景を鑑みれば、該当シーンにてゴジラが抱いたであろう特別な感情に思いを馳せることを禁じ得ない。そして、それはまた同時に、強大な力をもつ超常の存在であるゴジラという怪獣にも垣間見える繊細な情緒に気づくことにも繋がり、ゴジラという怪獣の持つ魅力にますます惹かれる要因になるのだろうと思われるのである。特撮シーンの重厚な演出だけでも十分見ごたえのある本作であるが、上記のような観点からもぜひ楽しんで貰いたい。

以下見どころ
・ラゴス島守備隊撤退前夜
ここの、瀕死のゴジラザウルスに敬礼する新堂が素晴らしい。昭和初期の作品を除き、怪獣映画における人間側の演技はどことなく棒だったりわざとらしかったりして時々辟易するのだが、このシーンでの土屋嘉男の演技は別格。自分たちを守ってくれた恐竜に恩義を感じながらも島を離れなければならない新堂隊長の無念さをよく表現されていると思う。皆このくらい力を入れて演技してくれればいいのに。
・地球岬にて、ゴジラ北海道上陸
歴代のゴジラ上陸シーンでもトップ3には入る。伊福部氏のゆっくりとしたゴジラのテーマがより強大となったゴジラの描写によく合うんだ。
・ゴジラVSキングギドラ、網走平原第一次会戦
それまでのゴジラシリーズにはなかった、怪獣同士の重厚なバトル表現はこのシーンから始まる。何気にそれまでゴジラとキングギドラが1対1で戦ったことはなかったため、いったいどちらが勝つのか子供心に身震いした記憶がある。
・新宿副都心最終決戦
数億円という予算をかけて組まれた、ゴジラ映画の中でもトップクラスのクオリティを誇る新宿副都心高層ビル群のミニチュアセット。その中で死闘を繰り広げる二大怪獣。現代の映像作品のように建築物の破壊描写をCGに頼らず、実際に組んだミニチュアをぶっ壊す手法で撮影された特撮シーンには、やはりCGには出せない迫力がある。怪獣同士の死闘を遠巻きに眺める自衛隊の視点や、広大なセットの全景を見渡すような引きのシーンなど、巧みなカメラアングルにもぜひ注目。


「ゴジラVSメカゴジラ(1993)」
命あるものとないものの差
≪基本データ≫
1993(平成5)年12月11日公開
配給:東宝
観客動員数:380万人
製作:田中友幸
脚本:三村渉
音楽監督:伊福部昭
特技監督:川北紘一
監督:大河原孝夫

≪ストーリー≫
1992年、立て続けに受けたゴジラ被害に対応すべく、国連はG対策センター(U.N.G.C.C:United Nations Godziila Countermeasure Center)、および対ゴジラ部隊Gフォース(G-FORCE)を筑波に設置した。G対策センターは対ゴジラ戦闘マシンの開発計画として、まず1号機ガルーダを試作。しかしガルーダは攻撃力に問題があり、新たに2号機の開発に取り掛かる。まず、海底からメカキングギドラを引き揚げ、23世紀のテクノロジーを解析。そして、そこから得られた技術を元に究極の対ゴジラ兵器「メカゴジラ」が完成した。

1994年、ベーリング海のアドノア島で翼竜の化石が見つかり、国立生命科学研究所の古生物学者である大前裕史を中心とした調査隊が出向いたところ、そこには孵化した後の卵の殻と孵化していない卵があった。調査隊は卵をテントに持ち込み分析していたが、巨大な翼竜・ラドンが姿を現す。逃げ惑う調査員たちに追い討ちをかけるかのごとく今度は海からゴジラが姿を現し、ラドンと戦い始めた。隙を見てヘリコプターに乗り、島から脱出した調査員たちは、持ち帰った卵を京都の国立生命科学研究所に持ち込む。

無類の翼竜好きのGフォース隊員・青木一馬は、卵のことを知って国立生命科学研究所を訪ね、卵を観察していた研究員・五条梓の前で悪戯心から研究室にあった植物の化石を持ち帰ってしまう。ところが、三枝未希がその植物から奇妙な波動を感じた。さらに、そこから再現された音楽を聴いた卵が突如孵化を始めた。ゴジラザウルスの幼獣が生まれたのだ。

そして、ベビーと名付けられた同族を取り返すためか、ゴジラが四日市市に上陸した。Gフォースはメカゴジラの出撃命令を下し、メカゴジラはゴジラに向いて飛び立っていく。しかし、ゴジラはその圧倒的パワーでメカゴジラに勝利する。ゴジラはそのままベビーのいる京都に進撃し国立生命科学研究所を襲うが、地下の細胞保存室に移されていたベビーを感知することは出来ず、大阪湾へ去った。

ゴジラがベビーを求めていることを察したGフォースは、梓たちの反対を押し切り、ベビーを囮にしてゴジラをおびき出す作戦にでる。だが、空輸コンテナは復活したラドンによって奪取され、千葉の幕張へ降ろされる。そこにゴジラが出現。修理を終えたメカゴジラも出撃し、両者は再び幕張の地で相対する。

≪総論・見どころ≫
本作「ゴジラVSメカゴジラ」は、ゴジラ生誕40周年記念作品であったことや、また当時製作が決定されたハリウッド版巨大トカgもといUSAゴジラの影響もあり、当初としてはVSシリーズ最終作の予定で作られた映画である。結局ハリウッド版の製作が遅れたことで平成ゴジラシリーズはこの後VSスペースゴジラ、VSデストロイアと続いていくわけであるが、仮とはいえ最終作、幕張開拓地を忠実に再現した約千平方メートルのミニチュアセットやシリーズ最高の火薬量による特撮シーンなどに加え、ストーリーなどにも最終作を意識した要素がいくつか見られる。何より特筆すべきは冒頭より明確に示される「ゴジラVS人間」の構図であろう。VSメカゴジラとタイトルにあるが、本作品にて登場するメカゴジラは、「ゴジラ対メカゴジラ」や「メカゴジラの逆襲」のような宇宙人の侵略兵器ではなく、人間側が23世紀のオーバーテクノロジーを先取りして開発した「対ゴジラ用決戦兵器」としての役割を与えられている。第一作においては一人の天才科学者の尊い犠牲によりゴジラに対しからくも勝利を収めた人類であるが、その後のゴジラ映画では(ゴジラがヒーローとなった時代を除き)人類は例外なく蹂躙される側、ゴジラの持つ強大な力に圧倒される側で辛酸を舐め続けてきた。搦め手を使ってもせいぜいゴジラを氷河の中や火山の噴火口に閉じ込めるにとどまり、最先端のバイオテクノロジーの成果である抗核バクテリアもゴジラの復活により水の泡と消え、92式メーサー戦車やスーパーX・X2などの超兵器もゴジラの放射熱線の前に次々と砕け散っていった。そんな人類が、ついにゴジラと同等の力を持つ兵器を作り上げ、ゴジラと真正面のパワー勝負を挑むのである。ある意味最終回に相応しい展開といってもいいだろう。劇中でも、人類側の主役であるG-FORCEの面々は、ゴジラという生物を徹底的に研究し、弱点を調べ上げ、使えるものは何でも使うことで、何としてでもゴジラの生命を絶とうと必死になって戦うことになる。この、ゴジラや怪獣が大好きな人間(あるいは子供達)にとってはともすれば「人間側が悪役」ともとられかねない演出であるが、実際にゴジラのような怪獣が現れたならば、人類側はどんな犠牲を払ってでもこれを排除しにかかるだろう。人間が生み出した怪獣故にそれは人間側のエゴともいえるが、それほどまでにゴジラの持つ力は強力無比であり、人間とゴジラが共存することは極めて難しい問題なのである。

ここで、メカゴジラというスーパーウェポンを手にしゴジラへの徹底抗戦に挑む人類に立ちはだかるのが、本作を取り上げた最大の理由である「怪獣という生物がもつ本質的な生命力」である。人間が怪獣から生き逃れるために戦うように、怪獣もまた一個の生命として生き続け、あるいは自らの命を犠牲にしても次の世代に続く命を助け、生命の連鎖を紡ぐために必死に戦うということで、それらが相反するものとなれば決着を付けなければならないのである。ただ、これまでのゴジラには、そのように命がけで戦う描写はあまりなかったように思う。勿論「ゴジラの逆襲」の対アンギラス(初代)だったり、VSキングギドラの網走平原での闘い、またはVSモスラでの太平洋沖でのバトラ幼虫との戦いなど、「外敵を排除するための殺し合い」といえばそれにふさわしい熾烈なバトルは幾つかあったものの、やはりゴジラの力が強大すぎるが故に、いうならばゴジラという怪獣の完全性ゆえに、ゴジラが命がけで自分という生命にとって重要な何かを守るために戦うという印象を抱くことはほとんど無かったように思う。自身に立ちはだかる邪魔者を薙ぎ払っているだけ、といえば一番しっくりくるだろうか・・・。

そんなゴジラに、一個の生命として極めて重要な「戦う理由」が与えられたのが本作であり、そのキーパーツとして、ゴジラの起源となった恐竜ゴジラザウルスの幼体”ベビーゴジラ”が登場するわけである。ゴジラに近い血縁のものとしては「ゴジラの息子(1967)」などでミニラが登場し、同作ではミニラを巡ってゴジラとカマキラス・クモンガなどが攻防を繰り広げるシーンがあることにはあるのだが、完全に子供向けの映画ということもあり、イマイチ真剣味に欠けた。対して本作では、ゴジラは自身の同胞を巡り、卵を求めて上陸したアドノア島では、実に25年ぶりに銀幕への復活を果たした翼竜怪獣「ラドン」と、卵から孵ったベビーゴジラを人間の手から取り戻すために日本へ上陸したのちは、ゴジラの息の根を止めるべく過去最大の戦力を整えた人類+メカゴジラと対峙する。平成ゴジラシリーズ(+84, VSビオランテ)のストーリーから考えれば、この世に生まれ出でてからこれまでを孤独に生き、初めて自分に近しいものを見つけたゴジラが、それを取り戻すためにその強大な力をふるう。ゴジラに敵対した人類は、ゴジラという怪獣そのもののもつ力に加え、自身に近しいものを守るという、生命としての本質的な力にもまた抗わなければならないのである。「命あるものとないものの差」。本作品にて極めて印象深く残るのは、メカゴジラを駆り、そして怪獣たちのもつ「生命力」に直面したパイロットが不意に漏らすこのセリフである。怪獣は怪獣である前に一個の生物であり、然らば命無き兵器にはない強烈な意思(あるいは本能)の力が怪獣には宿っている。ゴジラだけではなく、ラドンもまた、(托卵の性質上)同胞であるベビーゴジラを助けるため、自身の命を投げ打ってまで戦う。そんな、架空の存在であるはずの怪獣に対する「生命賛美」の演出が強く押し出されることで、平成ゴジラシリーズに共通する「怪獣ドラマ」というテーマは本作品において極限まで昇華されることとなる。過去最大級の爆炎と煌びやかな光線飛び交う特撮演出に挟まれる、そういった繊細かつ神秘的なファクターもまた、本作を通じて怪獣映画の魅力として感じてもらいたい部分である。

以下見どころ
・OP
VSメカゴジラとVSデストロイアのOPはガチでカッコイイ。歴代怪獣映画の中でも1,2を争うだろう。
・表情豊かなゴジラ
平成ゴジラシリーズでは、ゴジラの顔のアップを映すシーンで使用するために上半身だけのスーツに機械フレームを入れたメカニカルモデルが導入されている。ゴジラVSキングギドラでの新堂会長と対面するシーンなどで印象的な表情を見せたのもこれであるが、ゴジラの表情の表現は、VSメカゴジラのものが一番イキイキしているように思う。自らの放射熱線の直撃にびくともしないメカゴジラに慄くときや、ベビーゴジラを迎えるときの優しげな表情など、これらの細かな表情変化の演出もまた、ゴジラという怪獣をより身近な生物として感じられるようにしている。
・ベビーゴジラの咆哮からゴジラ復活までの一連のシークエンス
書くよりそのまま見た方が良い。生命の持つ神秘的な力の極致。
・ED
自分がゴジラシリーズで一番好きなエンディング。このエンディングのために書き下ろした伊福部昭氏の音楽以外に、「生命賛美」と呼ぶに相応しい力強い旋律をもつ音楽を自分は知らない。



References
【怪獣wiki特撮大百科事典 http://wiki.livedoor.jp/ebatan/
【Wikipedia】
【 自衛隊イラク派遣5:若者照準、映画に協力 http://www.asahi.com/special/jieitai/kiro/040323.html
【ゴジラ-特撮SIGHT http://www.k5.dion.ne.jp/~god-sf/index.html
【みんなのシネマレビュー http://www.jtnews.jp/index.html
【日本の軍事=安保環境と巨大怪獣映画 http://blog.goo.ne.jp/weltstadt_16c/e/7c08edf7a098cf3f2436c1d96f55b3c9
【平成ガメラ Blu-Ray BOX 映像特典~15年目の証言~】
【Godzilla and Other Assorted Fantastic Monsters http://godzilla.open-g.com/
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